読書。
長らく読書という事から離れておりました。
読みたいものは沢山あるのに、何故か手が出ない。
そんな時間を何年も過ごしていて、ふと読まなければいけないと駆られて久々に手にしました。
ネタばれはあるかもしれません(笑)
『ドグラ・マグラ』
上下巻に分かれていて、まぁ上巻は消化するのが大変でした。
世界に入り込む為の準備を上巻から下巻の最初の方までの間にさせられる訳です。
ぐっと入った頃に何転もさせられて、結局何だったんだ…。
と、思わされるところが日本探偵小説三大奇書に数えられる所以なのかなと感じた所もありました。
実際本当に何だったのでしょう?
立証できない事を立証して終わりましたが、結局目に見えた立証はなされておらず、視覚重視で思考してみると混乱しか生まない。何も目に見えない事ばかりです。
結局何だったんだ、幻にでも引きずり込まれて終わったのか?
「解らない」という事がずっと付き纏ってきます。
ただ、読者自身が「解らない」ことを解決しようと思った時、この作品の真の威力が発揮されるんだなと感じました。
解らないと答えを探し回り、もがき苦しみ、何が面白くてこんなに沢山の調べ物をしないといけないのだ?何でこんなに解らないんだ!何で今こんなに必死になってこんなものを探して調べているんだ、もういいじゃないか!なんて考えながら、最終的に「すべてをうけいれる」という選択が出来れば、この作品は意味を成すのではないかと感じたのです。
作品が描かれた当時、大きな宗教改革が行われました。
現在騒がれているスピリチュルの原型とも云えそうなものです。
ただ、今と違って当時の宗教改革ではご都合主義はまかり通らぬというお触れだったり、ダメ押しのように日月神示やトドメノフミというものが発表されたように記憶しています。
そしてこの作品は、そのご都合主義はまかり通らぬという事を突き付けた作品なのだと感じました。そして、必死に答えを探すという読者の行為こそが霊的な修行に勝手につなげられてしまうのだと(笑)
ご都合主義はまかり通らぬ、全てを受け入れよ。
そう聞こえました。
全ては「全て」です。
現代では「全て」と言っても自身の都合で解釈した「全て」でしかありません。
そうではないんだと、『ドグラ・マグラ』は語っているように感じました。
「一厘違いは大違い」
その一厘を知る術、その足がかりをこの作品は持っているんだと感じました。
ネガティブな幻想や迷いを生むために描かれたものではなく、迷いを打ち切る為だったり、苦しみから解放される為に描かれたものなのだと思いました。
とても宗教的で精神的なストーリーでした。
個人的に訳あって色々な調べ物をしていたので、このように感じたのかもしれません。
ただ、大切な事を忘れそうになった時、この一見グロテスクでナンセンスに思える作品が自分本来の生きる目的や意味を思い出させてくれそうな気がしています。
あ、読んで狂ったのではありませんよ(笑)
少しだけ、造詣があったのでそう感じたのです。
「いやでもあなたおかしいでしょう?」
そう思われるということは、夢野氏のトリックに引っかかってしまったのかもしれないです(笑)
そう言っている私もそうなのかもしれないですがね;
これも三大奇書と呼ばれる所以だと思います。
そして、あれは違う、これは違うと、この作品で争いを生む為に描かれたものでもないということです。
だから更に「すべてをうけいれ」なければいけないのだろうし
全てを認めなくてはいけないのだろうと個人的に感じました。
出てくる答えはそれぞれ違うと思いますから。
そしてその先にしか、その一厘はないのでしょうから。
読みたいものは沢山あるのに、何故か手が出ない。
そんな時間を何年も過ごしていて、ふと読まなければいけないと駆られて久々に手にしました。
ネタばれはあるかもしれません(笑)
『ドグラ・マグラ』
上下巻に分かれていて、まぁ上巻は消化するのが大変でした。
世界に入り込む為の準備を上巻から下巻の最初の方までの間にさせられる訳です。
ぐっと入った頃に何転もさせられて、結局何だったんだ…。
と、思わされるところが日本探偵小説三大奇書に数えられる所以なのかなと感じた所もありました。
実際本当に何だったのでしょう?
立証できない事を立証して終わりましたが、結局目に見えた立証はなされておらず、視覚重視で思考してみると混乱しか生まない。何も目に見えない事ばかりです。
結局何だったんだ、幻にでも引きずり込まれて終わったのか?
「解らない」という事がずっと付き纏ってきます。
ただ、読者自身が「解らない」ことを解決しようと思った時、この作品の真の威力が発揮されるんだなと感じました。
解らないと答えを探し回り、もがき苦しみ、何が面白くてこんなに沢山の調べ物をしないといけないのだ?何でこんなに解らないんだ!何で今こんなに必死になってこんなものを探して調べているんだ、もういいじゃないか!なんて考えながら、最終的に「すべてをうけいれる」という選択が出来れば、この作品は意味を成すのではないかと感じたのです。
作品が描かれた当時、大きな宗教改革が行われました。
現在騒がれているスピリチュルの原型とも云えそうなものです。
ただ、今と違って当時の宗教改革ではご都合主義はまかり通らぬというお触れだったり、ダメ押しのように日月神示やトドメノフミというものが発表されたように記憶しています。
そしてこの作品は、そのご都合主義はまかり通らぬという事を突き付けた作品なのだと感じました。そして、必死に答えを探すという読者の行為こそが霊的な修行に勝手につなげられてしまうのだと(笑)
ご都合主義はまかり通らぬ、全てを受け入れよ。
そう聞こえました。
全ては「全て」です。
現代では「全て」と言っても自身の都合で解釈した「全て」でしかありません。
そうではないんだと、『ドグラ・マグラ』は語っているように感じました。
「一厘違いは大違い」
その一厘を知る術、その足がかりをこの作品は持っているんだと感じました。
ネガティブな幻想や迷いを生むために描かれたものではなく、迷いを打ち切る為だったり、苦しみから解放される為に描かれたものなのだと思いました。
とても宗教的で精神的なストーリーでした。
個人的に訳あって色々な調べ物をしていたので、このように感じたのかもしれません。
ただ、大切な事を忘れそうになった時、この一見グロテスクでナンセンスに思える作品が自分本来の生きる目的や意味を思い出させてくれそうな気がしています。
あ、読んで狂ったのではありませんよ(笑)
少しだけ、造詣があったのでそう感じたのです。
「いやでもあなたおかしいでしょう?」
そう思われるということは、夢野氏のトリックに引っかかってしまったのかもしれないです(笑)
そう言っている私もそうなのかもしれないですがね;
これも三大奇書と呼ばれる所以だと思います。
そして、あれは違う、これは違うと、この作品で争いを生む為に描かれたものでもないということです。
だから更に「すべてをうけいれ」なければいけないのだろうし
全てを認めなくてはいけないのだろうと個人的に感じました。
出てくる答えはそれぞれ違うと思いますから。
そしてその先にしか、その一厘はないのでしょうから。